意外と期待はずれだった事



 昨年行った平等院が意外と地味だった
 (なぜか記憶の中の平等院は極彩色だったから)

 大浦 
 お正月に行った沖縄離島。天気が悪くて寒かった。楽しかったけどね。

 徳永 
 金儲けのため家族総出でフリマに出店し、ブース代や駐車場代で8000円もかかったのに
 売上が15000円しかなく、残った7000円を家族で分けたら利益が
 一人1000円ちょっとにしかならなかったこと。

 樹生 
 夢の国に遊びに行ったのに夢中になれなかった大人すぎる自分(哀愁)

 梦月 
 めっちゃ頑張ってめっちゃ探してめっちゃ喜んでもらえると思ったプレゼントを
 「あ、どうも」って軽く受け取られた。


 「夢のまた夢」登場人物になぞらえて、出演者へお題を設定しました。
 第3回目は、

 ゾフィー皇太后

 です。

エリザベートの夫フランツ・ヨーゼフ皇帝の母、ゾフィー皇太后。
「宮廷で唯一の男」
とまで呼ばれた彼女のことをご紹介いたします。


 経歴

ゾフィー・フリーデリケ・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・バイエルン
1805年1月27日生まれ。1872年5月28日 ウィーンで崩御。
バイエルン王マクシミリアン1世の娘で、オーストリア大公フランツ・カールの妻。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母親で、エリザベートのお姑さんです。

ゾフィー皇太后は、エリザベートの母親ルドヴィカの姉にあたります。
つまり、2人は叔母・姪の間柄。
エリザベートの夫フランツ・ヨーゼフは従兄弟にあたります。

ゾフィーの異母兄にバイエルン王ルードヴィッヒ1世がいます。
(もちろん、エリザベートの母ルドヴィカにとっても異母兄になります)
彼はルードヴィッヒ2世の祖父にあたります。


その美貌


ゾフィーは大変な美少女で有名でした。
その美貌は肖像画に描かれ、肖像画は異母兄ルードヴィッヒ1世が
ニンフェンブルク宮殿内に作った、美人な人たちの肖像画ばかりを集めたギャラリー
(美人画廊)に飾られ、今でも見ることができます。

 抱いてるのはフランツ・ヨーゼフです。

ルードヴィッヒ2世の「美」への執着は
おじいさんの代から引き継がれている遺伝子なのかもしれませんね。


ゾフィーの結婚


国政にとって個人の感情など二の次なのは
ゾフィー皇太后にとっても同じこと。

エリザベートと同じヴィッテルスバッハ家のゾフィーが
ハプスブルグ家に嫁いできたのは、1824年11月4日。
ゾフィーが19歳の時でした。

夫 フランツ・カールは、不器用で容姿も地味な青年。
狩猟パーティの最中に一度だけ交わした会話も
若い王女の気に入る内容とは言えなかったそうです。

この、あまりに鈍重で魅力のない夫に対して
「情熱的で頭がよく意思も堅い皇后」と評判だったゾフィーが
満足するはずはありませんでした。

皇帝家に世継ぎをもたらすことを期待されたゾフィーは、
幾度かの流産と、バート・イシュルでの鉱泉療養を経て、
結婚後6年目にようやく長男のフランツ・ヨーゼフを出産します。

 子どもたち

その3年後に次男フェルディナント・マクシミリアンを
その翌年に三男カール・ルートヴィヒを
そして長男誕生から12年後に末息子のルートヴィヒ・ヴィクトルを産んでいます。
娘のマリア・アンナは伯父の皇帝フェルディナント1世と同じく癲癇であり、
この病気のため4歳で亡くなりました。



スキャンダル


ゾフィーは、夫の9歳年下のハンサムな甥、ライヒシュタット公爵フランツと仲が良く
2人で頻繁にバレエやコンサートに出かけていました。
このため、ライヒシュタット公が亡くなった年に生まれた
次男フェルディナント・マクシミリアンについては、
実父はライヒシュタット公だという噂があったほどです。


「宮廷内のただ一人の本物の男」


オーストリア帝国に襲い掛かる革命の波の中、
ゾフィーは君主制を維持するためにその才知を活かします。

政治に有能なゾフィーの願いは、オーストリア帝国が
皇帝を戴く君主制としてあること。

そして、政治的な才能に恵まれない夫ではなく
英才教育を施した息子 フランツ・ヨーゼフ1世を
皇帝の座につけることでした。

 そのチャンス

そのチャンスが訪れたのが、1848年のウィーン革命(三月革命)です。
この革命でゾフィーの一派は時の宰相メッテルニヒを追放。
虚弱体質だった皇帝フェルディナント1世も廃位となり、
弱冠18歳の息子フランツ・ヨーゼフが新たな皇帝に就きました。

皇帝の妻になれなかったゾフィーは、皇帝の母になることに成功したのです。



その後、フランツ・ヨーゼフの摂政のように
政治に介入を続けるゾフィーを 帝国の臣民たちは

「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」

と評していたといいます。

フランツ・ヨーゼフとエリザベートの結婚


帝政を保持するため、ゾフィーはもちろん息子フランツ・ヨーゼフの結婚についても計画していました。

皇后候補は、妹ルドヴィカの長女・ヘレネー。
幼い頃から皇后教育を受けてきたヘレネーを皇后に迎えることで
さらに磐石の体制を敷こうとしていたゾフィーでしたが
その予定を崩したのは、他ならぬフランツ・ヨーゼフでした。

ヘレネーとのお見合いの席で、同席したエリザベートに一目惚れしたフランツ・ヨーゼフ。
一度たりとて母ゾフィーの意向に背くことのなかった彼が
唯一、自身の意思を通したのがエリザベートとの結婚でした。

しぶしぶ許諾したゾフィーでしたが
いざ嫁いできたエリザベートは、皇后にふさわしくなく自由気ままで、まったく従順ではないお嫁さん。

ゾフィーはハプスブルグのしきたりと伝統を固持し
エリザベートに皇后教育と義務の遂行を迫り
2人の仲は決裂していきます。


悲劇


1867年。
ゾフィーの次男(フランツ・ヨーゼフの弟)マクシミリアンが
メキシコ皇帝でありながら、メキシコで銃殺される事件が起こります。

銃殺というショッキングな死に、さすがの女傑ゾフィーも
すっかり気落ちして生きる気力を失っていきました。

1872年の春。
ブルク劇場から王宮に戻った後、ゾフィーは薄いイブニングドレスのままバルコニーで涼もうとして眠り込んでしまい、
体を冷やし過ぎて肺炎に罹り、そのまま亡くなりました。

遺骸はカプツィーナー納骨堂内部の、
ライヒシュタット公爵と息子マクシミリアンの遺骸の間に安置されています。