いつか旅行したい場所



 ドイツ オーストリア

 大浦 
 老後は世界一周したいくらい沢山ある。
 ベネチアとかバルセロナとかモンサンミッシェルとか・・・
 あ、ちなみに国内なら屋久島行に行ってみたい。

 徳永 
 敦煌

 樹生 
 今はバイエルン。美味しいウィンナー食べたい(*^^*)
 後はエジプト(は行った)、トルコ、ペルー、カンボジア等々遺跡がある所。

 梦月 
 今は熱烈にオーストリアやらバイエルンやらに行きたいのですが、
 やはり、バックパックでブラリと世界一周へ。ぜひ。


 「夢のまた夢」登場人物になぞらえて、出演者へお題を設定しました。
 第2回目は、

 エリザベート皇后

 です。

ミュージカル「エリザベート」は世界中で上演され、大人気です。
日本でも宝塚版、東宝版と制作が続いていますので、お楽しみの方も多いのでは。

世界中で愛される皇后エリザベートの人生を見ていきましょう。


流離の皇妃と呼ばれた、エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ
経歴はこちら

 経歴

1837年12月24日生まれ。
オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。
「シシィ」の愛称も有名です。
1898年9月10日 暗殺者の手にかかり死去。
享年61歳でした。



愛情に溢れた自由な日々


エリザベートの魅力は、なんといっても生涯にわたって「自由」を求めたことでしょう。
彼女の幼少時代は、自由な魅力に満ちたものでした。

 家系

バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンと
バイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれます
(8人の兄弟姉妹がいます)

ルードヴィッヒ2世は、母・ルドヴィカの異母兄の孫にあたり、
1845年生まれのルードヴィッヒとは、8歳離れた親戚筋となります。



幼少の頃


父・マクシミリアンは末っ子のエリザベートを溺愛していたと言います。
王位継承権からは遠く、公務とは無縁の彼らは自由を満喫していました。

生涯の乗馬好きは三つ子の魂かもしれません。
父と共に狩りに出かけたり、
仲の良い弟とサーカス団の真似事をして樹に登ったり、
綱渡りをしたり。(綱渡りから落ちて大怪我をしたことも)
街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり。

エリザベートは後年、そのチップを「私が唯一、自ら稼いだお金」と言って
大切に保管していたといいます。


フランツ・ヨーゼフ1世との結婚


そんな生活が終わるのは、1853年8月のことでした。

母・ルドヴィカの姉・ゾフィは、オーストリア皇帝の母でした。
2人は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妃候補に、
エリザベートの姉・ヘレネーを予定していました。

ヘレネーはもちろん未来の皇后として教育され、
勉強・躾教育など、厳しく育てられたそうです。

しかし、ヘレネーとフランツ・ヨーゼフ1世のお見合いの席で
フランツはエリザベートに一目惚れ!
母・ゾフィーの言いなり皇帝だったというフランツが
生涯唯一わがままを通したのが、エリザベートとの結婚でした。

 晩年のフランツ・ヨーゼフ1世

翌日から行われた皇后教育に何度もヒステリーを起こしながら
1854年4月、エリーザベトは16歳で結婚、オーストリア皇后となったのです。

 兄弟そろっての求婚

1848年夏。このお見合いよりも6年前。
当時まだ10歳だったエリザベートを見初めたのは、
フランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルードヴィヒ(15歳)でした。

カール・ルードヴィヒは夏のバカンスが終わったあとも
エリザベートに手紙を書き、プレゼントを贈っているのですが
(なんと指輪まで!)エリザベートからの返信は森や湖の事、
母・ルドヴィカにもらった羊の話や旅芸人に会ったことなど
恋の片鱗もない、無邪気なものでした。



嫁姑戦争?


オーストリア皇后となったエリザベート。
しかしその宮廷は「宮廷で唯一の男」と称された
伯母で姑であるゾフィー大公妃が取り仕切っていました。

 ゾフィー大公妃

ゾフィー大公妃はしきたり・伝統を重んじる厳格な人で
自由奔放に生きてきたエリザベートの無作法は許されませんでした。

結婚からわずか2週間後、エリザベートはこんな詩を書いています。

  牢獄の独房で目覚める私は
  足かせの重さに打ちひしがれる
  言葉に尽くせぬ熱い願いは
  ひたすらに自由…
  失われてしまった自由よ!

起きてから寝るまで、時間も挙動も着る服も、
出す手から話しかける順番さえ決まっていたその生活に
野山を駆け巡ったエリザベートは耐えられませんでした。

そして、ウィーン宮廷から逃避する生活が始まるのです。


逃避の日々


エリザベートを語る上で欠かせないのが彼女 「流浪の旅」 でしょう。

ウィーン宮廷を嫌った彼女は、英国女王から貸し与えられた大型ヨットに乗って
マデイラ島をはじめ、マジョルカ島、マルタ島、コルフ島などの地中海の島々を巡りました。

豪華なお召し列車を仕立て、国から国へ、エリザベートは何からか逃げるように
そして、何かを求めるように流浪を続けます。

ウィーンに戻ることの方が少なかったエリザベート。
夫であるフランツ・ヨーゼフ1世は、返信の来る保証のない手紙を書き送り、
時にはエリザベートの旅先に出向いて彼女に会いに行ったそうです。


エリザベートとルードヴィッヒ2世を語る上でよく出てくる「薔薇島(ローゼンインゼル)」は
ルードヴィッヒ2世が死去したシュタルンベルク湖に浮く小さな島です。
(バイエルン王家の領地のひとつでした)

2人は何度か、この島で出会い、語り合ったと言います。
ルードヴィッヒの死後、遺された小さな館の机にはエリザベートからの手紙が置かれていたそうです。


ハンガリー皇妃として


当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーは、
エリザベートにとって特別な場所でした。

皇妃教育の時代に、「オーストリア帝国の歴史」を教示した教授がハンガリー人であったこともあり
彼女はハンガリーの歴史から、おかれた立場、共和制のメリットなどに理解を示すようになります。

ハンガリー語もネイティブ並に得意だったエリザベートは
ゾフィー大公妃がハンガリー人嫌いだった事もあり、
反発するようにエリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けたのです。

 ハンガリーでの戴冠式に臨むエリザベート

1866年、オーストリアがプロイセンとの戦いに敗戦したとき、
オーストリアの属国だったハンガリーに独立の運動が高まります。

この独立運動に対し、エリザベートは
ハンガリーに主権を与えることをフランツ・ヨーゼフ1世を説得したのでした。

こうして、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリアとハンガリーの皇帝に就任し
オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立したのは、1867年の事です。

放浪を続けたエリザベートでしたが、愛するハンガリーのために成した
「国の離反を防ぐ」という、歴史的な功績といえます。


家族


さて、エリザベートの家族について見ていきましょう。

 夫はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

オーストリアの名君として名高い彼は心からエリザベートを愛していました。

義務を放棄して宮廷に帰ってこない放浪の皇妃を庇護し続け、
エリザベートの死後「私がどれほどシシィを愛していたか誰にもわかるまい」
とつぶやいたといいます。
彼の執政室にはエリザベートの肖像画や写真が一面に飾ってあり、
その静かで深い愛情を推し量ることができます。


 子どもは4人

長女 ゾフィー(1855年-1857年)
次女 ギーゼラ(1856年-1932年)
長男 ルドルフ(1858年-1889年)
三女 マリー・ヴァレリー(1868年-1924年)

長女・ゾフィー、次女・ギーゼラ、長男・ルドルフは、
出産後すぐに大公妃ゾフィーに養育権を取り上げられ、
母親であるエリザベートと会うことが出来たのは
1日のうちでほんのわずかな時間だったそうです。


養育権を奪われたエリザベートは大公妃ゾフィーの反対を押し切り、
当時2歳であった長女・ゾフィーを連れてハンガリー旅行に出かけます。
そこで病にかかり、ゾフィーは夭折してしまいました。

大公妃ゾフィーとの亀裂は、これで決定的になりました。

三女のマリー・ヴァレリーに関しては養育権を勝ち取り、
エリザベートが「唯一の子」として溺愛したといいます。


エリザベートの美貌


さて、エリザベートといえばその美貌が有名ですね。
身長172cm、体重は50kg未満。そしてウエスト50cm!
子ども4人を産んだと思えない脅威の体型です。

エリザベートのダイエットと美貌に対する執着は激しく、

1日に5回体重計に乗って、その日の食事を摂るかどうか決めていたり
(晩餐を摂らないことが多かったので家族と会う時間も少なかったようです)

自慢の髪は3時間かけて整えたり
(結髪係の侍女たちは大変だったでしょう…)

今でもウィーン宮廷のエリザベートの部屋では、
彼女が利用していた運動機器が設置されたままになっています。

 

また旅先では侍女を連れて8時間も歩き続けていたそうです。

ただ、偏執的なまでのダイエットや美容に対する執着は
多くの人から奇異の目を向けられました。

 エリザベートのダイエット法をご紹介!

●果汁療法
オレンジやぶどう、りんごなどのジュースを飲む方法。
皇妃は一日オレンジ3個分ですませることもあったようです。
かなり愛飲していたようで、その飲みっぷりといったら、
フランツ・ヨーゼフが
「ジュースの飲みすぎで胃酸過多になって胃酸過多が悪化するのではないか」
と心配するほどだったとか。

●乳清療法
乳清は「ホエー」と呼ばれ、チーズを作るときにその副産物としてできたりします。
たんぱく質はほとんど含まれていませんが、カリウム、カルシウム、
ビタミンなどが含まれているため、現在ではこれに果汁や炭酸などを
加えたものが市販されていますね。

そんな乳清ですが、この当時これは「生命の水」と称えられ、
あらゆる病を治し、永遠の若さを保つ飲み物としてもてはやされていました。
1850年からは皇妃のための乳清作りが始まり、
そのための職人が高給で雇われていたほど。

けれども現在となってみては、乳清の栄養分は
それほどのものではないということがわかっています。
乳清には整腸作用があるともいわれていますが、
エリザベートは1850年ころから便秘薬をその後50年にわたって飲み続けていて、
そのことから少なくともエリザベートには整腸作用は効果がなかったということがわかります。

そして結局、乳清にはカルシウムが牛乳の半分しか含まれていないことや
他の無理なダイエットがたたって、エリザベートには早くから骨粗しょう症の症状が現れます。
そしてたんぱく質不足はむくみや坐骨神経痛なども加わり、
エリザベートの健康を害していくのです。

●肉ジュース療法
子牛の生のもも肉をプレスして搾り出した血を直接飲むという方法。
エリザベートはこれを「肉ジュース」と呼んで、1867年から愛飲していました。
プレス機などは、わざわざフランスから取り寄せたようです。
実際1890年ころのパリでも、牛の生血が薬と考えられていたことがありました。
アミノ酸やビタミン、ミネラルなどが含まれていたので、
病人に良いと考えられていたのだそうです。
けれどもこれによってエリザベートは胃カタルや胃けいれんなどの
障害を引き起こしたと言われています。
(ウイルス感染でしょうか…)

エリザベートはこの生血を生産するためのプレス機を
旅行先にも必ず持っていくほどのこだわりを持っていたようですが、
ある日食事をともにした皇帝が、皇妃のもとに運ばれてきた赤い液体が
子牛の生血であることを知って、さすがに不快感をあらわにした
というエピソードもあるようです。

なおこの生肉、美肌効果があるとも信じられていたので、
エリザベートはパックにも使用していたそうです。

美貌と痩身であることに執念を燃やし
過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していたエリザベート。
後年、そのしわ寄せで衰えた顔を、分厚い黒のベールと
革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、
それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として残っています。


エリザベートの晩年 最大の悲劇


1889年、皇太子ルドルフが、マイヤーリンクで自殺を遂げます。
当時30歳だったルドルフは、妻子を遺して17歳の少女と心中事件を起こすのです。

 

事件の仔細はルドルフの項に譲るとして…。

エリザベートはルドルフの死後、死ぬまで喪服を脱ぐ事はありませんでした。
暗殺によって自身が死ぬ時まで、
ルドルフの遺髪をペンダントにして身に着けていたのです。


静かな死


1898年9月10日、旅行先のジュネーヴ・レマン湖のほとり。
船に乗ろうと侍女と2人で歩いていたエリザベートは、
走り出てきた男に体当たりされます。

 暗殺直前のエリザベート(左)

今も残る、その時身に着けていた衣装を見てもはっきりとわかる
刺し傷です。

イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルキーニが持っていたのは
鋭く研ぎ澄まされたヤスリ。
彼はそのヤスリをエリザベートの心臓に突き立てました。



鋭利で小さなヤスリはエリザベートの心臓に達していましたが
コルセットの締め付けが失血を遅らせたため、
エリザベートは刺された後に自力で歩いて乗船。
船の中で気を失い、そのまま帰らぬ人となりました。

 ルイジ・ルキーニ

(ルケーニ、という表記もありますが、日本でより一般的なルケーニと表記させていただきます)

ルキーニはイタリア人で、幼い頃から鉄道員として働き、
イタリア軍に召集された後も何度も表彰される優秀な軍人でした。

しかし、給料面で不満が募って除隊。
スイスに移住してからは無政府主義に傾倒していきます。

ルキーニの殺害対象は、当初イタリア国王ウンベルト1世だったのですが、
イタリアに戻るまでの旅費がなく断念します。
次に狙っていたフランスの王位継承候補オルレアン公フィリップは
予定を変更し、すでにジュネーヴを発っていました。

そこで、偶然エリーザベトの居場所を新聞で知り、
ジュネーヴのレマン湖でエリーザベトを殺害するのです。

警官からエリーザベトの死を知らされると大喜びし
「俺は心臓を狙った。満足だ」と誇らしげに答えたといいます。

「王侯を殺したかった。王侯なら誰でも良かった」
貧しく不幸な育ち故に、仕事もせずに国民の血税で豪奢に暮らす、
権力者である王侯を激しく憎悪していたのでしょう。

犯行の栄誉は自分一人が負うべきと力説し、死刑を希望しましたが、
裁判で終身刑の判決を受けました。
11年の獄中生活を送り、独房の中で回顧録を書いた後
ベルトを使って首吊り自殺しました。

今、エリザベートは夫フランツ・ヨーゼフ1世と、息子ルドルフと並び静かに眠っています。


(左)ルドルフの棺 
(中)フランツ・ヨーゼフ1世の棺
(右)エリザベートの棺