他人にはなかなか理解してもらえない私だけの楽しみ
葵 | 筋トレ、腹筋 |
大浦 | 理解されてるかどうかは別として、今の楽しみは植物の世話 |
徳永 | 真夏の暑い日にベランダをきれいに掃除しビニールシートを敷いて、 汗をだらだら流しながらひとりで酒盛りをすること。 |
樹生 | 横向きの施術中でお客様の気持ち良さげなうっとりした顔を見るとき。 |
梦月 | 冷蔵庫の余りモノを使って一人用のごった煮鍋を作って食べること。 実のところ、どんな料理よりも美味しいと思う。 |
「夢のまた夢」登場人物になぞらえて、出演者へお題を設定しました。 まず栄えある第1回目は、タイトルロールにもなっている ルードヴィッヒ2世陛下 です。 |
(「Ludwig」の読み方は多々ございますが、さくら2com舞台作品タイトルに合わせて「ルードヴィッヒ」と表記させていただきます。)
まずは彼の経歴を見ていきましょう。
1845年8月25日生まれ。
第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)として君臨します。
(現在でいえばドイツ連邦共和国のバイエルン州です)
1886年6月13日 死去。享年41歳でした。
死因は溺死です。諸説ございますが、それは後ほど…
さて。
19歳という若さで王位を継いだ彼は、現在「メルヘン王」や「狂王」と言う異名で知られます。
音楽家・ワーグナーを国庫圧迫まで庇護したこと。
また、中世騎士道を具現化したような城を建築したこと、などです。
「ローエングリン」「ニーベルングの指輪」などのオペラ作品で知られる、リヒャルト・ワーグナー。
CMなどでもよく使用され、一度は彼の音楽を耳にしたこともあると思います。
荘厳で華々しい旋律は、どれもワーグナーの世界観で彩られています。
ルードヴィッヒ2世は、13歳という多感な時期にワーグナーのオペラ「ローエングリン」や「タンホイザー」を観劇し、非常に感銘を受けたといいます。
時代は折りしも、現代への足音が聞こえてきた頃。
「王朝」への反発、民主主義の台頭という時節を生きていた彼にとって、中世の正統な血統が息づく物語は、どれほどきらびやかで鮮やかに写ったことでしょう。
後々も、ルードヴィッヒ2世は時代の推移を冷ややかに見つめながら、まるで回帰するように中世の世界観へと没頭していきます。
さて、王位についた彼(1864年 19歳)がまずしたことは、借金取りに追われて逃げ回る生活をしていたワーグナーを探し出し、彼に莫大な援助を行うことでした。
借金の返済、専用の劇場を建設、ワーグナー自身の生活の保障、邸宅の寄贈…。
その援助の過激さがワーグナーとルードヴィッヒ2世自身への批判となり、なんと翌年(1865年)にはワーグナーはミュンヘンを追放されています。
しかし、援助はそのまま続けられ、ルードヴィッヒ2世という力強い支援者を得たワーグナーは音楽史に残る名曲の数々を生み出したのでした。
リヒャルト・ワーグナー
ディズニーランドの「シンデレラ城」のモデルとしても有名な、ドイツ屈指の観光名所です。
このノイシュバンシュタイン城を建てたのが、ルードヴィッヒ2世でした。
きらびやかな中世風の城は、見るものを圧倒します。
それもそのはず。
ルードヴィッヒ2世の中世趣味を色濃く反映した、まさに彼の理想だけを反映した城です。
ルードヴィッヒ2世は、自分が死んだ後に王の城を晒し者にしたくない。と言って爆破するように遺言していたのですが、築城に携わった地元民たちの強い反発で遺されたままでした。
また、第二次世界大戦の終戦の折り、敗北を知ったかのヒトラーもこの城を道連れに爆破を命じましたが、下見に行った兵士があまりに不憫に思って実行されなかったそうです。(兵士、グッジョブ!)
「夢や理想を現実の形にする」
そのことを本当に実現したのが、このノイシュバンシュタイン城です。
ウォルト・ディズニーがこの城を見学したとき、その実現力にディズニーランドの建設を着想したといいますので、影響力の大きさが知れます。
ノイシュバンシュタイン城は「白鳥城」という意味です。
白鳥が両羽根を広げたような優美な城。
ルードヴィッヒ2世の美意識をかんじます。
ノイシュバンシュタイン城
終焉の足音
ルードヴィッヒ2世は、そんな風に理想と夢の世界を大切に慈しみました。
もちろん、王としてはそれだけではいけません。
世はビスマルクが先鋒に立ってドイツ帝国が成立しようとしていた頃。
もちろん、バイエルン王国もその標的でした。
ルードヴィッヒ2世は戦争を嫌いました。
中立を取り続け「のらりくらり」とも表現できるような方法で戦争を避けていましたが、
ビスマルクの勢いは止まらず、いよいよバイエルン王国も帝国の一員として組み込まれることに。
それは、ヴィッテルスバッハ家の血統で繋いできた王家の終焉を意味していました。
その後、ルードヴィッヒ2世はまるで理想の世界へ没頭するように、華麗な城を作り続けます。
(1874年 29歳 リンダーホフ城 定礎)
(1878年 33歳 ヘレンキームゼー城 定礎)
また、人の視線を嫌った彼は専用劇場で観客を自分一人だけとしてオペラを上演させました。
(観客が王のボックス席を見上げるのが我慢できなかったそうです)
人と会うのを避けるため、昼夜逆転の生活になっていき、食事も一人で摂っていたそうです。
給仕の召使さえも遠ざけ、食卓はカラクリしかけで誰も会うことなく配膳ができるようになっていたとか。
こうして、ルードヴィッヒ2世はどんどんと孤立を深めていくのです。
リンダーホフ城。 ルイ14世を敬愛したルードヴィヒ。 ベルサイユ宮殿のトリアノンを元にこの城を構想したといいます。 |
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ヘレンキームゼー城。 |
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狂王として
1886年。
ビスマルクのドイツ帝国に追従するのを是とした派閥によって、ルードヴィッヒ2世の叔父であるルイトポルトが、
ルードヴィッヒ2世の弟オットーを擁立してルードヴィッヒ2世に対抗します。
オットーは1870年の普仏戦争に参戦してからというもの、精神に異常を来たして幽閉されていました。
もちろん、治世能力はありません。
ルイトポルトはオットーを擁立して自身が摂政として立ち、ルードヴィッヒ2世の逮捕を命令しました。(1886/6/9)
逮捕の理由は「精神病により治世ができない」ため。
ノイシュヴァンシュタイン城にいたルードヴィッヒ2世は逮捕され、ベルク城に護送されます。(6/12)
ベルク城
ルードヴィッヒの逮捕は、グッデン医師の診察結果「パラノイア」が理由とされています。
しかし、これには疑問が残ります。
当時、オットーの主治医であったグッデン医師ら4人がルードヴィッヒ2世の侍医となりましたが、総理大臣ルッツに指名された彼ら4人はルードヴィッヒ2世の診療を行ったことはありませんでした。
ルードヴィッヒ2世の廃位を企てたルイポルト派の恣意的な操作であった、とされる所以です。
「私は、私自身にも他人にとっても謎でありたい」
シュタルンベルク湖畔に建つベルク城に護送されたルードヴィッヒ2世は、ひどく冷静であったといいます。
その翌日6月13日。
それは、雨の降る日でした。
侍医グッデンを共にしてルードヴィッヒ2世は散歩に出ました。
歩いている2人の姿を警護の警察官が見かけ、それが最期の姿となりました。
夜になっても戻らない2人を探して城中の人間が捜索に出たところ、
城から程近い湖畔で2人の溺死体が見つかりました。
「私は、私自身にも他人にとっても謎でありたい」
そんな言葉の残していたルードヴィッヒ2世。
その通り、謎に満ちた死を迎えたのでした。
ルードヴィッヒの遺体が発見された場所には現在も十字架が掲げられています。